2023  A年

待降節の主日



四旬節の主日


 
 

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         待降節第1主日  A年  20221127日 
 グイノ・ジェラール神父

                    イザヤ2,1-5  ローマ13,11-14   マタイ24,17-44

  イエスは「来られる」お方です。昔、クリスマスの夜に、ベツレヘムに生まれ、イスラエルの民と共に住むために来られました。今は、毎日、ミサ祭儀と教会の秘跡によって、私たちの魂に住むようにイエスは来られています。最後に、私たちの死の時に、一緒に永遠に住むためにイエスは私たちを迎えに来られます。イエスの最初の到来は謙遜で隠れていました。イエスは神の小羊として来られました。今のキリストの到来は神秘的ですが、愛で満たされています。イエスの最後の到来とても素晴らしいですが同時に私たちに不安をもたらします。なぜなら、イエスは審判者として来られるからです。

  待降節は何よりもまずイエスを期待する時です。待つことは自分に不足しているもの、あるいは人を恋しく思うことを認めることです。キリスト者である私たちにとっては、待降節の期間は自分の心と魂に希望を育てる時です。イエスと一緒にいなければ、私たちに一番大切なものが欠けているのでこの空虚な場所をどうしても満たしたいと強く感じます。キリスト無しでは、私たちは生きることができないと待降節は思い起こさせます。

  神がイスラエルの民に宣言し約束した平和を預言者イザヤは首を長くして望んでいます。イザヤは神が与える完全な世界を期待しています。聖パウロにとって信仰の内にることは、救いをもたらす神を忘れることです。それを防ぐために、キリストを衣として着て、目を覚ましていることが大切だと聖パウロは勧めています。この賢明な助言を聖パウロは今聞いたばかりのマタイの福音から受け取りました。

 待降節は、ご馳走やプレゼントなどの楽しい祝いの準備期間になってはいけません。待降節はイエスを迎える大切な心の準備期間です。それを忘れるなら、聖パウロが忠告した「酒宴と酩酊(めいてい)、淫乱(いんらん)と好色、争いとねたみ」の世界に入り込む危険性があります。お腹いっぱいで眠りに落ちないために、私たちは神と隣人への愛を自分の内に養うことによって目を覚ましていなければなりません。

  私たちの期待が、預言者イザヤが預言した平和の世界の準備になりますように。この預言は決して実現されない願望のままであってはなりません。平和を緊急に実現することが急務です。ですから、待降節が神との出会いの道であるように努めましょう。実際にイエス・キリストを身にまといましょう。つまり、母マリアがしたように、イエスが私たちの内にご自分の体を形作られることを快く承諾しましょう。イエスの愛と光が私たちを覆いますように。愛すること、赦すこと、慰めること、分かち合うことを私たちが学ぶために、イエスを自分の内に大いに歓迎しましょう。アーメン。

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           待降節第2主日  A年 2022124日   グイノ・ジェラール神父

                 イザヤ11,1-10      ローマ 15,4-9     マタ3,1-12

   神は話す時は、いつも人の心に語ります。「慰めよ、わたしの民を慰めよ、エルサレムの心に語りかけよ」(参照:イザヤ40, 1-2)と預言者イザヤを通して神は願っています。すでに、神は預言者ホセアを通してそれを告げました。「わたしは人をいざなって荒れ野に導き、その心に語りかけよう」(参照:ホサア2,16)と。神は私たちの心に語りかけるだけではなく、「良い羊飼いが羊の世話をするように」(参照:イザヤ40,11) 主は私たちをふところに抱くのです。

   神は私たちを裁くためではなく、私たちを救うために来られることを聖書全体は教えています。そういう訳で、神は人の心に語りかけるのです。審判者は、人の良心に語りかけます。救い主である神は人を赦し、慰め、導き、そして世話をします。審判者は、人を罰し、裁き、拘留(こうりゅう)の状態について何も気を配らずに人を刑務所に送り込みます。

   私たちのために、神は真理と愛、溢れる命の道です。神が人の心に語りかける理由は、人の心をご自分の現存と平和と喜びで満たすためです。神との親密な生き方を聖ぺトロは「新しい天と地」(参照:2ペトロ3,13)、聖ヨハネは「新しいエルサレム」(参照:黙示聖21, 1)、そしてパウロは「キリストの神秘的体」(参照:2コリント2,27)と表現しています。

  ですから、この待降節の間にもう一度、私たちと共に親密に歩んで行きたいと願う神の望みと期待を再発見しましょう。また、平和をもたらす神の命の言葉を受け止めるために私たちの心を大きく開きましょう。アーメン。

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                 待降節第3主日  A年  20221211日  グイノ・ジェラール神父

                      イザイ35,1-610   ヤコブ 5,7-10  マタイ11,2-11

  今日の典礼の色はピンクです。この色は喜びです。今日の三つの朗読は、喜び、希望と信頼を表わしています。喜びは砂漠に花を咲かせます。希望は人生の試練を耐え忍ぶ助けになります。信頼は神への信仰を強めます。

  「雄々しくあれ、恐れるな・・・見よ、神自身が来られる、あなたたちを救うために。・・・とこしえの喜びがあなたたちの顔を光輝かせる」と預言者イザヤは教えます。「忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られるから」と聖ヤコブは励ましています。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、耳の聞こえない人は聞こえる」とイエスは宣言します。それはご自身の喜びに私たちを引き寄せるために、またご自分に対する私たちの信頼を支え、強めるためです。

 私たちを強く招く典礼の喜びは、先ず預言者イザヤの遠慮のない喜びです。次にヘロデ王監獄に閉じ込めている洗礼者ヨハネの心にある、誰も奪うことができない喜びです。そしてこの喜びは、試練と迫害にも関わらず希望を失わない聖ヤコブの忍耐し続ける喜びです。最後に、この喜びは私たちを癒し、私たちを救いに来るイエスご自身の喜びです。

  神が私たちに与えてくださる救いは永遠の喜びの泉です。この喜びは神から出てきて、神に似る者とするので、私たちの顔を照らし、私たちを光輝く者にします。実に、待降節は私たちを救う神の喜びに入る大切な季節です。この喜びによって私たちは信頼をもって試練を耐え忍ぶことや、恐れずに勇敢に信仰を証しすることができます。

 また、この待降節を通して、自分の内にある砂漠や荒れ果てた場所を発見するようにしましょう。この荒れ果てた土地は「恨み、惨めさ、絶望、軽蔑、利己主義」などと呼ばれています。ですから、神の喜びを掴みましょう。勇気を出しましょう。神は全てを新たにしますから。もし、私たちが自分の弱さを認めて、犯した世の罪の赦しを受けたなら、必ず神は私たちの砂漠に花を咲かせ、豊かな実を実らせます。そして、神の喜びが私たちの顔を光輝かせます。神の喜びと言えば、それは聖霊の実りです。この喜びは私たちを新たにし、聖なる者とします。ですから、主が与えに来る救いを待ち望みながら、大いに神に感謝しましょう。アーメン。

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       待降節第4主日  A年  20221218日  グイノ・ジェラール神父

            イザヤ 7,10-16      ローマ1,1-7      マタイ1,18-24

  世界の問題や日常生活の思いがけない出来事に直面して私たちの信仰は試練にあっています。そういう訳で、今日の典礼はとても難しい状況に直面した二人の人を私たちに見せようとします。

 その最初の人は、イスラエル王のアハズです。彼はエルサレムを攻撃する大勢の敵に直面しています。不安で脅えているアハズ王は預言者イザヤを通して神の助けを願うよりも、アッシリア人の王の人間的な助けを求めます。この解決策は最も悪い結果をもたらします。なぜなら、自分の王国を救うために、アハズ王はアッシリア人の支配下に自分を服従させるので必ずアッシリア人の偶像礼拝の影響を受け、イスラエルの民の信仰を破壊する危険にあうでしょう。幸いなことに、神は、預言者イザヤを通してイスラエルの民を敵からあらかじめ救い出しました。

 複雑な試練に直面するもう一人の人はヨセフです。彼はどうしても神の意志に従いたい正しい人です。ヨセフは決して自分の評判を守り、傷ついた自分の名誉の修復をすることを考えませんでした。ヨセフは神に向い、自分の心に語る聖霊の声を聴こうとします。アハズ王と違って、ヨセフは自分の内面的な平安を保つことができました。ヨセフは乙女マリアの内に聖霊が実現し始めた神秘を尊重します。密かに許嫁(いいなずけ)であるマリアとの縁を切ることを決めていましたが 神はすぐに天使を彼に遣わします。この天使はヨセフに彼の使命とマリアと生まれる子に対する役割を教えます。ご自分の救いの計画を実現するためにヨセフはどうしても必要な人です。

 試練に直面する私たちに神はヨセフを模範として示します。私たちも、人間関係をかえって複雑する人間の解決を捜し求めることをせずに、試練の時はすぐ神により頼むことをしましょう。神により新たにされた信頼と信仰をもって、思いがけない日常生活の出来事と出会うことこそ、私たちの大切な務めです。これにより、私たちが神を自分の救い主として受け入れる助けになります。神を知ることや神と共に生きることは不思議な素晴らしい希望の泉になります。

 全く解決がないと思われる問題に直面する時にこそ、私たちはイエスが共にいて、すべてを解決されると信じなければなりません。そのためにも、数日後に私たちを救うために来るイエスを歓迎する準備をしています。クリスマスの夜に生まれる神は、暗闇を照らし、私たちの人生をあらゆる面で光輝かせます。ですから、神における信仰を尽くしながら、自分たちと全世界の上に救い主である神の平和と喜びを引き寄せましょう。アーメン。

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        主の降誕の祭日  A年 20221224日  グイノ・ジェラール神父

             イザヤ 9,1-6      テトス 2,11-14     ルカ 2,1-14

  幼いイエスの誕生は始まりではありません。母マリアから生まれる前に、イエスは既に永遠の昔から父なる神と聖霊のそばで存在していました。私たちの歴史に生まれてきたイエスは、「肉になった」神のみ言葉です。イエスは、永遠に、父なる神と聖霊の交わりの中におられる神です。聖ヨハネは福音書の中でこの神秘を簡単にまとめました。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(参照:ヨハネ1,114)と。

  クリスマスの夜、人間と全く同じようになりたかった神を私たちは迎え歓迎します。生まれたばかりのイエスは 神の命が私たちの命に等しいものだと教えています。今夜、神は私たち一人ひとりに次のように打ち明けます。「わたしの目にあなたは価高く、貴くわたしはあなたを愛しています」(イザヤ43,4)と。人に注がれている神の愛が私たちを神聖な者にします。

 有名な司教聖アタナジオは宣言しました。「神人間になったのは、人が神になるためでした」と。「インマヌエル」、「一緒におられる神」は私たちを救い、神聖な者にするために人間になりました。神はご自分の腕を大きく開いて、愛と平和で私たちの人生を満たしたいのです。愛である神は、また私たちの命の光です。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている」(参照:ヨハネ 1,4)と聖ヨハネは説明しました。イエスは私たちの暗闇を照らすお方です。イエスがもたらす光の内に真の光である「神」ご自身を見るよう、私たちは誘われています。詩編がそれを預言していました。「主よ、あなたの光に、わたしたちは光を見る」(参照;詩編36,10)と。確かに、神と共に私たちは「世の光」となり」天の天使よりも光輝く光を放つ者になります。

 母マリアからお生まれになったイエスを通して、神はご自身が誰であるのか、また私たちは誰であるのかをはっきりと教えています。神が私たちの間に、また私たちの内に住むように来られたからこそ、私たちは栄光で満たされた神の神殿になるのです。

 「肉になった」神の御言葉であるイエスは私たちの心を新たにし、聖霊は私たちの魂に自分の全ての賜物を注ぎ、父なる神は私たちをご自分の愛する子供とします。人間になったイエスは永遠に私たちの命に神としてのご自分の命のすべてとご自分の限りのない愛を注ぎに来られました。これこそクリスマスの喜びです。

  ですから、私たちの希望を満たすこの夜に、天使たちに合わせて、声を高らかにして歌いましょう。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。アーメン。

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           四旬節第1主日  A年 2023226日    グイノ・ジェラール神父

               創世記2,7-93, 1-7    ローマ 5,12-19     マタイ4,1-11

  四旬節の最初の日曜日の典礼は、対立する二つの誘惑の物語を私たちに聞かせます。 これらの2つの物語を通して、私たちは神の子どもとしての今日の生き方について考えるよう招かれています。

 イエスが洗礼を受けた日に、人間としての存在の基盤となった「あなたは私の愛する子です」という父の言葉を聞きました。イエスは神の子です。しかし、イエスは神の息子として人間の状態を生きるか、それとも神のように振る舞うかを選ばなければなりません。イエスが生涯を通して「人の子」、すなわち人間として生きようとしたことを私たちは、知っています。そのために、イエスが受けた洗礼の後で、彼は人生でただ一度しか誘惑を受けていないのだと思ってはいけません。

  私たちと同じように、彼は生涯を通じて誘惑を受けました。誘惑はサタンだけでなく、自分の家族、弟子たち、熱狂的な群衆、そして自分の敵からも溢れるほど出てきました。イエスが自分の使命に反対したペトロを「サタン」と呼んだことを思い出しましょう(参照:マタイ 16:23)。 また、サマリア人の村を焼き払おうとするヤコブとヨハネが受けたイエスの厳し咎め(参照:9:54)、そしてイエスに絶えずしるしを求めていたファリサイ派の人々に対するキリストの否定(参照:マルコ、811-13)等など数限りなくあることを思い出しましょう。

  イエスは生涯を通じて、人類を救うために神のように振る舞う誘惑をずっと拒みました。イエスは終わりまで、常に完全に人間の状態にとどまりました。父なる神の従順な子として、イエスは悪に打ち勝つために悪のあらゆる種類の力と戦いました。

 エデンの園でアダムとエバは「あなたは私の最愛の子です」と言われた神の声を聴きました。この素晴らしい庭園での無限の愛により、神は彼らのためにすべてのものを利用できるようにしました。アダムとエバはキリストと同じ誘惑を受けました。「神の子」という表現を聞いた彼らは、「神」という言葉だけを心に留めて、自分たちは神の愛する息子、娘であることを忘れ、神になることを選びました。

  蛇が誘惑を与えるときに彼らにほのめかしていることは、実は私たち一人ひとりにも同じことを言っているのです。「神様はあなたが思っているようなお方ではありません。 あなたは彼を父だと思っていますか?実に彼はライバルです。彼は残酷な神であり、嫉妬深い神であり、あなたを恐れている神です。彼は否定するべき悪い神です。だから自分で決めてください。 何が良くて何が悪いかは自分で判断してください。 そうすれば、あなたは神のようになるでしょう」と。

  私たちは何かが悪い、間違っていることを知りながら、それが自分にとって都合良くそれを正しいと判断する度に、アダムとエバの誘惑に陥っています。私たちは、現在あまりにも多くの人々が神なしで非常にうまく生活している世界に住んでいます。「神は何のために必要なのか? 神がいなくても、自分の人生を十分に生きることができます」と人々は言います。これが、私たちが神の愛する子どもとして生きるために警戒しなければならない理由です。イエスのように、私たちは神の言葉により一層頼り、私たちを救い、守る父なる神の無限の愛を深く信じなければなりません。

  この四旬節の間、私たちは利己的な欲望を満たすことによって生き続けるつもりでしょうか、それとも神の子どもとしてもっとより良く生きようとするつもりでしょうか。もし私たちが神を信じるなら、父なる神がその子どもたちに与える自由の中で率直に生き、聖霊の力に導かれ、忠実にイエスに従うに違いありません。アーメン。

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            四旬節第2主日  A年  202335日  グイノ・ジェラール神父

               創世記 12,1-4     2 テモテ 1,8-10     マタイ 17,1-9

  先週の日曜日、私たちは、イエスがいかに普通の人として生きることを選んでおられたかを知りました。確かに、ご自分の神聖な力を使う代わりに、イエスは私たちを救うために苦しみ、そして死ぬことを選びました。私たちが信仰を宣言するとき、神であるイエスが私たちと同じように、涙を流す目、慰めを現して血を流す手、苦しみを受けて死ぬ体を備えた人間になったことを私たちは断言します。


 しかし、今日の福音書が示すように、イエスはまことに神であり、すべての人に栄光を注がれる神です。この光輝く姿に変わったイエスを目前で見たペトロとヤコブとヨハネは特別な証人でした。後に山から降りてきたイエスは、彼らが見たことについて黙っているように厳しく求めました。同時に、イエスは、ご自分の使命を果たすために受けなければならない受難の苦しみを彼らに打ち明けました。

  イエスの変容は私たちに次のことを教えています。人間はどんなに弱くても、神に変身する運命にあります。洗礼を受けたことによって復活したイエスの命にぴったり合わされて私たちは「世の光、地の塩」になりました。私たちは「太陽のように輝く」(参照:マタイ13,43)正しい人になるように召されています。ですから、四旬節の間に、イエスの光と私たちを変容させる彼の栄光に身を晒しましょう。

  イエスにあって、「栄と輝き私たちの体をまとい、光は衣として私たちの体を覆うのです」(参照:詩編104,1)。イエスのそばに立っているモーセと預言者エリヤの存在は、私たちの永遠がどのようなものになるかを前もって示しています。天国にテントを張る必要はありません。なぜならイエスは私たちと共にいる神の完全な住まいですから。弟子たちを覆いに来た輝く雲は、私たちを覆い、包み込み、そして守ってくださる聖霊のしるしです。

 イエスご自身が命の道における私たちの住まいであり、ご自分の言葉と復活した体で私たちを養い、強めてくださるのです。「これに聞け」と父なる神は願っています。今日の私たちは、前世紀の人々よりもはるかに簡単に、効果的に神の言葉を読み、聞くことができる幸運に恵まれています。キリストと接触するために、聖書を開いてイエスが私たちに語りかける命の言葉を受け取ることは簡単です。

 この四旬節の間に、もっとキリストに目を向けて生きていこうではありませんか。そうすることによって、私たちは「鏡のように主の栄光を映しだしながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変容」(参照:2コリント3,18)されるでしょう。 アーメン。

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          四旬節第3主日 A年  2023312日   グイノ・ジェラール神父

            出エジプト17,3-7     ローマ 5,1-25-8     ヨハネ 4,5-42

  砂漠の灼熱の太陽の下をずっと歩いたイスラエルの人々は疲れ果てて、喉が渇いていました。彼らは「水を飲ませてください」とモーセに言います。イエスがサマリアの地を通ったのは正午でした。太陽の下を歩いたイエスも疲れています。ヤコブの井戸の端に座って、彼は水をくみに来る女性に飲み水を求めます。

  モーセの執り成しのおかげで、イスラエルの人々は岩から豊かに湧き出る水で渇きを癒すことができました。福音は、イエスが喉の渇きを癒すことができたかどうかについては述べていません。 私たちが知っているのは、サマリアの女が、弟子たちがイエスのもとに戻ってきたのを見て、自分の水差しを置いて、イエスについて証しするために町に行ったことだけです。弟子たちは、イエスが水を飲んだかどうか調べようとはせず、彼は食事をしたと思い込んでいます。

 それらの相違点と類似点にもかかわらず、最初の朗読と福音は、神が永遠の命の湧き出る泉として、私たち人間の存在の中心におられる事実を思い起こさせます。イエスは私たちの近くにとどまっているので、シナイの山(参照:出エジプト24,15、1列王記19,8)やゲルジム山、またエルサレムの神殿で神を探し求めることがもう必要ではありません。誰もが助けられ、救われ、赦され、愛される必要がある場所に神はおられます。イエスが語る「神の賜物」は、どこにいても、宗教や政治的意見が何であれ、真実、正義、愛に飢え渇いているすべての人のための賜物です。

 「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれています」と聖パウロは私たちに思い起こさせます。私たちは神に愛されている子どもです。神は私たちを聖化し、変容させる永遠の愛で私たちを愛しています。父と子と聖霊である神は岩であり生命の泉です。それは人間の渇きをいっそう深め、癒し、清めるためです。

 イエスが座っている井戸は、かつて神がアブラハムとヤコブにご自身を示された場所です(参照:創世記 12, 6-7 35, 1)。この場所はまた、福音書の中で一度だけ、イエスがメシアであることを公然と明らかにした場所でもあります。「メシア、それは、あなたと話をしているこのわたしである」とイエスはサマリアの女に打ち明けました。サマリアの女はそれを信じ、すぐに町の人々に宣言しに行きます。 彼女の証言は、最も美しい噴水のように、人々をイエスへと導き引き寄せました。これらの人々は皆、イエスはメシアだと信じ、イエスと彼の弟子たちを喜んで何日も迎え入れ歓迎し、もてなしました。

 すべての人は、罪が詰まった深い井戸です。イエスはその井戸をほる掘り師であり、ご自分の秘跡と言葉を通して私たちを整え、聖霊の生ける水を私たちに新たに与えてくれます。イエスは私たちの最も秘密にしている傷を明らかにし、すぐにそれらを癒し、私たちの近くに住んでいる人々のためにそれを生きいきとした泉に変えてくれます。

 ミサ祭儀に参加することで、私たちが永遠の命の水を私たちの中に湧き出させてくださるイエスに近づくことができますように(参照:ヨハネ 7,38)。また、イエスが「霊と真理をもって父を礼拝することを」私たちに教えてくださいますように。 アーメン。

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      四旬節第4主日 A年  2023319日   グイノ・ジェラール神父

        1サムエル記16,16-710-13   エフェソ5,8-14   ヨハネ9,1-41

  今日、闇から光へと移行し、光に向かって少しずつ歩む努力をするようにと四旬節の朗読は私たちを招いています。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(参照:ヨハネ1, 9)と聖ヨハネは福音書の冒頭で説明しています。今日の福音書によると、確かに、イエスは目の見えない人を見て、彼に何も聞かずにその人を癒したことを教えています。生まれつき目が見えない人は言われたことに従順に従いシロアムの池に身を洗いに行きます。そこで彼は癒され、人生で初めてこの世の世界を見るようになりました。

 また、この癒しは自分を虐待し侮辱するファリサイ派の人々の前で恐れずに証しをする信仰の賜物を与えました。この生まれきの盲人は、イエスと出会い、触れて、真の信仰へと導く全人類を象徴しています。

  まず、彼を知っていた人々は、癒された盲人の正体について質問します。「わたしがそうなのです」と彼は疑った皆に答えました。次に呼び出された両親が「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか」と、聞かれると、両親は自分たちがこの事件に関与しないように上手に答えました。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう」と。

  次にファリサイ派の人々の質問は、奇跡を行ったイエスに関するものになります。「では、お前の目はどのようにして開いたのか」。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか」と彼らは尋ねます。これらの質問は、元盲人の心から自発的な信仰の叫びを呼び起こします。「あの方は預言者です」。「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずですあの方は預言者です」と。

  はっきりと宣言された信仰のお陰で、癒された盲人はイエスと出会い、そしてイエスをよく見るようになりました。ファリサイ派の人々の前で、イエスは盲人が宣言したことをすぐに確認します。「 あなたは人の子を見ている。あなたと話している私が、その人だ」とイエスは彼に啓示します。

イエスは聖書を通して私たちに語りかけます。私たちは実際にイエスを見ることはありません。しかし、もし私たちが持っている信仰をはっきりと宣言し、それを伝えるなら、私たちも確実にイエスとの個人的な出会いになるに違いありません。

  聖パウロは、エフェソ人への手紙の中で、私たちが受けた洗礼によって闇から光へと移されたことを思い起させています。キリストが私たちを照らしてくださったので、私たちは「光輝く者となりました」。ですから、信仰を伝える明るい眼差しで世界や人々、出来事を見ることを学びましょう。この眼差し、神ご自身が見ているように私たちも見ることが出来ます。「わたしは人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、神は心によってみる」とサムエル記が私たちに教えているように。

 「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」とイエスは言いました。ですからこのミサの間、純粋で明るい眼差し、信じる喜びを与える内面的な眼差しの恵みを主に願い求めましょう。アーメン。

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          四旬節第5主日  A年 2023326日   グイノ・ジェラール神父

             エゼキエル37,12-14  ローマ 8,8-11  ヨハネ11,1-45

  今週の日曜日の典礼の三つの朗読は、生は死よりも強いということを教えています。私たちの神は命の神です。彼は生ける神、いのちを与え、生かす方です。イエスは先ずよみがえらせた死者たちを通し、次にご自分の復活によってそのことを確認されました。

 ラザロのよみがえりは、イエスご自身、そしてイエスを信じるすべての人に起こる事実を前もって示すのです。洗礼を受けた日から、私たちの中で永遠の命がすでに始まっています。しかし、私たちの生活の中には、追い払うべき死の匂いがまだたくさんあります。利己心、妬み、恨みが私たちの歩みを妨げます。ラザロにイエスが言われた言葉は、私たち一人ひとりに対しても言えるでしょう。「ほどいてやって、行かせなさい」と。

  イエスが復活した時、彼を包んでいた亜麻布は丁寧に巻き上げられ、墓に置かれていました。私たちもラザロのように、私たちを縛り、自由を妨げている包帯から解放される必要があります。これらの包帯は何よりも、私たちの霊的発達を妨げる罪の包帯です。 それらはまた、自身の見栄えを良くして、自分自身を守るために自分で作るシェルターでもあります。しかし幸いなことに、赦しの秘跡が私たちを死から解放し、私たちを復活させ、墓から連れ出します。ですから、この赦しの秘跡ついて真剣によく考えるべきです。 毎週日曜日に「私は罪の赦しを信じます」と繰り返すだけでは十分ではありません。 私たちは宣言したことを具体的に実現しなければなりません。ご存じのように、昼も夜も、赦しの秘跡(告解)への扉は一年中開いています。

  復活はキリストとの繋がりであり、個人的な出来事であるとイエスは説明しています。「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と。イエスを信じるということは、彼をもっと愛するために彼の人生を分かち合うことを望むことです。もし私たちの悪をイエスに委ねるなら、イエスは必ず私たちを癒し、救い、私たちを解放します。神ご自身が約束した通り、神の赦しは、私たちに聖霊の力、命と聖性の霊を豊かに与えています。「わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きるお前たちは主であるわたしがこれを語り、それを行うことを知るようになる」(参照:エゼキエ37, 14)と主は約束されました。

  使徒聖パウロも私たちが「聖霊の支配下に」生きることを強く誘います。聖パウロにとっては、洗礼を受けた人は、聖霊によって新しい命を生きるように召されているのです。私たちの体が死のマークで傷つけられている世界に私たちを縛り、結びつけているとしても、私たちの内に宿る聖霊は私たちを神聖な命に生きるよう教え、その道を開きます。今も、イエスは私たちに「私は復活であり、命です」と言われています。

  ですから、私たちが両親から受け取った命、また私たちが子どもたちに与えた命の価値を見守って、感謝しましょう。それは、神が御子イエスにおいて私たちに与える栄光の命をよりよく歓迎し、味わうためです。神は命の神であり、この命を何も破壊しません。その命は私たちを聖化し変容させるのです。しばしば罪の赦しを受けて、心から次の事を固く信じましょう。「私たちの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。わたしたちの命であるキリストが現れるとき、私たちも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう」(参照:コロサイ3,3-4)。アーメン。

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         枝の主日  A年 202342日  グイノ・ジェラール神父

      マタイ 21,1-11   イザヤ 50,4-7   フリピ 2,6-11  マタイ 26,14-2746

  父なる神と人に対する無限の愛に忠実であったイエスは、ご自身の死を惜しみなく受け入れました。ご自分の死によって、イエスは人の中にある罪と死のダイナミズムを消滅させようとします。罪は、律法学者とファリサイ派の人々を憎しみに導き、ユダを裏切りに引き寄せました。罪は弟子たちを眠りと逃走に導き、ペトロは否認に至りました。罪は大祭司カイファがイエスを死刑に処すように導き、そして、ピラトを恐れに落とし、不正を行うようにさせました。最後に罪はローマの兵士たちを不当な暴力に導き、群衆を嘲笑と侮辱に導きました。

 
この悪の爆発とこの暴力のエスカレートに直面しても、イエスは愛し続け、最後まで愛する人でした。イエスは、十字架の上からでも愛のまなざしを人々に注ぎ続ける方であり、預言者イザヤが告げた非暴力の選択をした方でもあります。「主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた」(参照:イザヤ50, 5-6)と。

 もちろん、自分の死の時が近づいているのを見て、イエスは苦悩に身震いしました。 十字架の上で、イエスは父なる神に見捨てられたことを悲しく感じました。しかし、イエスは自分の人生を生き、自分の受難と自分の死に対しても愛を持って、その愛を現しながら生きたことをすべての人にはっきりと示しました。父なる神から委ねられた使命に対してイエスは終わりまで忠実でした。イエスの人生完全に与えられた様に、イエスの死も世の救いのために完全に与えられた死でした。

 イエスの受難は、私たちの否認や臆病に対して、ペロのように泣くように私たちを誘います。イエスの受難は、エルサレムの婦人たちの思いやりを身につけ、他人の苦しみや不正の犠牲者になっている人々に対して無関心でないように、私たちを招いています。イエスの受難は、時にはキレネ人のシモンのように人々の重荷と十字架をうよう私たちに要求しています。最後にイエスの受難は、イエスのそばで十字架につけられた泥棒のように、次の願いを叫ぶように誘っています。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(参照:ルカ2342)と。

 私たちを救ってくださる神の愛に感謝しながら、過越の神秘をより一層熱心に生きるために、私たちがイエスと一致して、しっかり結ぶことができるように聖霊に願いましょう。アーメン。

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         聖週間 聖木曜日 A年 202346日  グイノ・ジェラール神父

         出エジプト 12,1-811-14  1コリント11,23-26  ヨハネ13,1-15

  その夜、食事中にイエスは自分の出発を祝ったと言えるでしょう。マタイ、マルコ、ルカは過ぎ越しの雰囲気の中にこの食事を設定しました。しかし、ヨハネは、これについて何も言いませんでした。彼はまたイエスを過ぎ越しの小羊とも言っていませんし、聖体の制度についても語っていません。一方、弟子たちの足を洗った洗足のことを語ったのはヨハネだけです。さらに、この食事の時に誰がイエスを囲んでいたかについてヨハネは全く教えていません。十二使徒に加えて、イエスの母を含む他の弟子たちがそこにいたに違いありません。

 大切なことは、イエスにとって弟子たちの足を洗うことやご自分の体を食べさせ、ご自分の血を飲ませること、弟子たちにも私たちに対してもご自分の無限の愛を示す方法でした。ヨハネが証ししたように、イエスは私たちを「愛して、この上なく愛し抜かれました」

 実際、イエスは、人々が彼から奪おうとするもの、つまり自分の命を前もって与えています。「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる」(参照:ヨハネ10,18)とイエスは言いました。イエスが糧として与えるパンとぶどう酒は、まさしくイエスの体と血であり、つまり彼自身の命です。私たちの日常の糧となることによって、イエスは私たちに命を与え、生かすのは神ご自身であることを教えています。それをあらかじめ、自分自身が人間の命のために与えられた真のパンであることをイエスは律法学者たちとファリサイ派の人々に教えていました。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」(参照:ヨハネ6, 51)と。

  私たちに対するイエスの愛は彼自身の命を与えることであり、これこそ今夜、神に感謝しながら私たちがゆっくり考えるべき「信仰の尊い神秘」です。アーメン。

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          聖金日  A年  202347日  グイノ・ジェラール神父

          イザヤ52,13-53,12  ヘブライ4,14-165,7-9  ヨハネ18,1-19,42

  多くの人々は、イエスが「人類の罪を洗い流し、父の怒りをなだめるために」いけにえとして殺されて死んだと信じ、またはそのように言っています。また、イエスは私たちの罪を贖うための身代金として引き渡されたとも言われています。

 このような信念は、原始人たちの宗教的精神に近いものです。彼らは、人間をいけにえとして捧げると神々から祝福と赦しを得られることを信じていました。幸いなことに、アブラハムによるイサクの犠牲の話で、聖書は人間の犠牲から動物の犠牲へと移行します。皆さんも同意するでしょう。それは小さな進歩です。

 しかし、「十字架のいけにえ」が新しい世界を開くのです。もちろん、宗教的あるいは政治的な考えに従って、イエスを殺そうとする者が人間です。しかしイエスは「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる」(参照:ヨハネ10,18)と、はっきりと宣言しました。従って、イエスは自分の自由意志で死に向いました。これを行うことで、イエスは自由に自発的にすべてに於いて咎めるところのない犠牲者であるという見方を示しました。イエスは自分の受難を模範的な行為にしようとしました。十字架は最早「いけにえ」ではなく、「愛の行い」です。十字架というのは、人間の邪悪さと暴力のために苦しんでいるすべての人々の運命とご自身を自由に結合するために来る神です。

 十字架は神の絶対的な愛のしるしです。この愛は、苦しむ人類の運命を最後まで分かち合うことを神に要求します。これからは、どんなに不幸な人でも孤独を感じることはできません。これこそが十字架の本当の意味です。私たちは神に与えられた命を生きることができるように、神は愛をもって私たちのために死にました。

  十字架の上では、神の愛が余るほど溢れ、突き刺されたイエスの心からは生ける水の泉が豊かに湧き出ます。暫くの間、少し静かに沈黙してこれについて考えましょう。アーメン。

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            聖土曜日(復活徹夜祭) A 年 202348日  グイノ・ジェラール神父

                      ローマ 6, 3-1  マタイ 28, 1-10

 今夜、マタイでは2人、マルコでは3人、ルカでは数人の婦人が「イエスが復活された」ことを証ししています。しかし、マグダラのマリアともう一人の証しは使徒たちを疑い深い人に変化させました。確かに、キリストの時代のユダヤの法律では女性たちは証しすることが許されていません。この婦人たちが宣言したことは全く法的には値打ちがありません。そういう訳でマルコは婦人たちが見たことや聞いたことについて何も誰にも言いませんでしたと書いたのです(参照: マルコ 16,18)

 イエスの復活の知らせは、最初は女性の証言に基づいていたとしても、その後、使徒たちと最初の殉教者たち自身が復活の出来事について独自の見解を述べました。「私は殺された証人を信じます」とフランス人のパスカルは書いています。実際に、復活の事実を証明するためにたくさんのキリスト者が殺されました。自分の考えと意見を守るために人が死ぬことはできますが、ある出来事を証しするために命を捨てる人は殆どありません。しかし大勢のキリスト者が復活の出来事証ししようとそれを実現しました。

 最も驚くことは、その結果です。なぜなら、不思議なことに増々たくさんの人が復活の出来事を信じるようになったのです。言い換えれば、実際に復活されたイエスを見た人々は少数ですが、弟子たちの証しを信じた人々は数えきれないほど大勢です。この事実を誰も否定できません。これこそイエスに於いて一つの「信仰の神秘」です。

長い歴史を通して、キリスト信者への迫害が信仰の成長と発展止めることは一度もありませんでした。その理由は、イエスはすべてのものの「アルファとオメガであり、初めであり終わりでる。イエスは復活であり永遠の命です」(参照:黙示録21,6、ヨハネ11,25)から。

今夜、私たちはそれを信じ、宣言しましょう。 はい、そうです。確かにキリストは復活しました。今夜、私たちは皆、その証人です。 アーメン、ハレル。


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